スヌープ・ドッグは、アメリカ合衆国カリフォルニア州ロングビーチ出身のヒップホップMC、俳優。以前はSnoop Doggy Doggと名乗っていた。
生年月日
1971年10月20日
名言
私たちは、自分を“上質なワイン”のように扱う必要がある。『上質なワインは時間と共に良くなる』と言うように、私たちは歳を重ねるごとに賢くなり、自分とどう向き合うか、他人とどう接するかを考えなければならない。そして、人生とは何なのかと学ぶんだ
今日という貴重な日は、これからの日々を生きるためにも最大限に活用する必要がある。それが、私が一番大切にしていること。毎日、最高な自分になろうとしているんだ
俺たちは、自分たちの人生をラップしていた。生についてラップしている奴もいれば、死についてラップしている奴もいた。だけどそれが俺たちの人生だったんだ。若いラッパーだった俺たちは、ラップしていた内容が現実になるなんて知らなかった。だから無罪判決を受けたあと、2ndアルバム「Tha Doggfather」では、自分が書くラップの方向性を変えた。「生」について書くことにしたんだ。俺はそれまで、死については書き尽くしていた。
自分であれ。ありのままの自分を信じ、自分の個性を守り抜け。そうすれば成功できる。
俺がこれまでにしてきたすべてのことに感謝したい。休まず働き、決して投げ出さなかった自分に感謝したい。
君には車やアクセサリーを買うお金がないかも知れない。でも自分らしくいることをやめてはいけない。そうしていれば必ず変化がやってくる
自分以外に「自分」の役割はできないから自分のレーンを作らないと。問題は 最近のラッパーは皆同じスタイル
ラップは、スラム育ちの黒人である自分に自信とプライドを与えるもの。
大人になって覚えておかないといけないのは、新しい世代が常に新しいものをつくるということだ。俺が若くてイケてた頃は、オッサンたちが俺のCDを聞いて「なんだこいつ最悪だな」って言ってたよ。 ただ俺のスタイルは完全に俺のオリジナルで、俺にしかできないことだから、俺は生き残ったんだ。
俺はそれが事実だと信じてるよ。「Tha Doggfather」でリリックを書き始めてから、たくさんのファンやホーミーが去っていった。彼らは俺が無罪判決を受けた後も、俺がギャングスタであることを求めたからだ。起きた事件を俺に美化して欲しかったんだ。「あんなのクソだ!無罪判決を勝ち取ってきたぜ!調子どうよ!」みたいな。だけど人が亡くなってるんだ。俺の人生も変わった。俺はお前たちと違うことを感じていたし、事実を真剣に受け止めている。「Doggyland」という曲では、誰も死なないし、みんなが生きていて美しい曲だ。だけど愛されなかった。死の反対である生についてラップした曲だったからだ。
オリジナルのスタイルをもっている者は永遠に語り継がれるけど、真似をしているやつらはすぐに消えるんだ。90年代には他のスタイルをパクっているラッパーは存在しなかった。存在したとしても、それはBiting(バイト:他のラップスタイルを真似すること)と見なされ、禁じられていたんだ。
自分のスタイルを持っていながらもできる技の範囲を広げておくことだ。例えばT-Painがでてきて、皆が彼を真似しはじめてから彼はあまり活動的じゃなくなってしまった。俺が「スヌープ」であることには変わりないけど、色んな音楽をやって、何年経ってもこうやってラジオにも出演できている。
俺はこういう若い世代を否定はしないよ。だから俺はUncle Snoopと呼ばれているんだ。もう少しオリジナルなものをやってごらん、ってアドバイスはするかも知れないけど、否定はしないんだ。
成功したスターになるために唯一大事なこと。それは、自分にしかない独特なキャラクターを見つけ、それを極めることだ。
日本の皆はいつだって、俺が愛する音楽に愛と尊敬と感謝を持って向き合ってくれる
日本のファンを心から愛している
俺もファレル・ウィリアムスと仕事しなきゃならないと思った。お前は誰よりも先を行っていたよ。お前はそれぞれのアーティストの持ち味を生かすのに長けている。
周りの人から模倣されるような存在になること。そのためには、自分にしかできないオリジナルな何かを見つけなければならない。
俺にとって頂点はジェームス・ブラウンとジョージ・クリントンだ。だからジョージ・クリントンが俺を「突出した才能」と褒めてくれて“フューチャリスティック・バウワウ”と名付けてくれたことは凄いことなんだ。彼はこれまで人を称賛するなんてしたことなかったからな。
ボディーランゲージは嘘をつかないだろう?ボディーランゲージこそ「いい音楽」の真の定義だ。
今の世の中みんな同じに聞こえる。みんな同じノリだ。でも俺達にはグルーヴがある。ノリはやがて消えるものだが、グルーヴは永遠に残るんだ。
俺には俺だけのアプローチがある。それは100%自分のものだ。まねされることはよくあるけれども、第二の俺になった人は誰もいない。
他人から何かを与えられるよりも、与える側の人間であり続ける俺に感謝する。