田中 マルクス闘莉王は、ブラジルのサンパウロ州出身の元プロサッカー選手。主なポジションはディフェンダーだったが、フォワードとして起用されることもあった。元日本代表。 父親が日系ブラジル人、母親がイタリア系ブラジル人で、ブラジルおよび日本の二重国籍である。 生年月日: 1981年4月24日
名言
燃える心が消えかけたときは、年齢に関係なく引退しようと思っていた
高校時代のサッカー部での3年間は一生忘れられないでしょう。来日当時は日本語が全く話せなかった。本当に苦しかったけど、あの時の苦労があるから今の自分があると思います
全く日本語を話すことが出来なかったのでそれが一番辛かったです。逃げ道がなかったですからね。文化、風習がすべて違う日本に来て、色々なことがあって何度もくじけそうになったことはありましたけど、ただ、いつかはプロになるんだという強い気持ちを持って日々、勉強とそしてサッカーに打ち込んでいました。
君が代はずっと練習していたけど、実際に試合が始まる前に歌っていると、胸にくるものがあった。日本代表でやりたい、W杯で戦いたいと心から思いました
日本を離れたから、というのが一番。夏に日本に一度戻るつもりだった。東京オリンピックで解説の仕事もあったけれど、五輪とともに延期になってしまった。そうなった時にどうすればいいのか。今まで応援してくれた人たちに対して、日本と違う生活、文化、こんなところに“楽しさ”があるというところを知って欲しかった。ブラジルと日本のギャップがありすぎる。サッカーだけではなく、恵まれた自然の中でどうやって生きていくか。楽しさを学べるか。日本の人たちが朝起きて、元気が出るようなものを届けたかった
相手を傷つけたり、ルール違反は絶対しない。ルールの中で勝つためにすべきことをやっていかなければいけないと思っています。それをやる覚悟はできています。プロとしてやっていく中で、相手をリスペクトし、審判たちをリスペクトし、サポーターをリスペクトした上で、『勝つために何をすべきか』ってことをね、常に考えながらやっています。
ブラジル時代、学校の部活はありませんでした。自分の街にはスポーツクラブがあったけど、みんなで集まって練習などもしません。土曜日にたまに試合がある程度。アマチュアの大会や草サッカーの試合には出たりしていました。中学時代はバレーボールのチームに入っていたけど、メンバーが集まって練習することはほとんどない。地区大会くらいには出ていても、正直部活とは言えないレベルでした
日本人は下手くそなんで下手くそなりの闘い方がある
日本に来て、部活の規律の厳しさというものが、自分にとっての大きな壁でした。ブラジルでは遅刻して当たり前。何て言うんですかね、“ルーズさ”というのがたくさんある国なので。日本に来て、電車が59分発だったら、59分にちゃんと出発するというのは、自分の感覚には全くなかった。今でもブラジルに戻ると、仲間との食事の集合時間が12時だったら、12時30分でも1時でもいいくらい。基本的に“時間を守る”という概念が全くなかったんです
考える力と、自信。俺の本当の武器は、これだよ。ヘディングでも強さでもない。お前はもっとサッカーを考えないといけない。考えて、それを成功体験にしていくことで、自信になる。持っている素材は間違いないんだから
日本とブラジルのギャップがあまりにもありすぎた。言葉遣い、目上の人に対するリスペクト、上下関係というものも部活に入ってから気づかされたものです
サッカーは上手くいかないスポーツ。自分たちのサッカーはできない。日によって調子も変わる。でも“頑張り”は変わっちゃいけない。その方向に向けさせたい。
部活の財産はブラジル時代の緩さ、という部分をなくしてくれたことだと思います。一流の国がこうやってやるんだという、その流儀を学ぶことができました。もっと小さな時からから日本に来ていたら、難しさを実感することはなかった。人格が多少でき上がっていた自分にとっては苦労しました。これが正しいと思っていた価値観があったから。白黒をつけることができる年齢になってから、自分が正しいと思っていたことが、まったく正しいものではないことが日本に来て分かったことです
進化していくための自分との戦いがずっと続く
ブラジルは日本よりも2000年くらい遅れていると思いましたね。正しいと思って、今までやってきたものは全部、間違っていた。それを認めなきゃいけない。それを認めた上で直さなきゃいけないのが、すごく難しかった。日本語も必死に勉強して1年、2年ぐらい経つと、だいぶ読み書きもできるようになりました。言葉の問題もそうですが、規律の壁を乗り越えたのが自分の中で大きかった。規律が大事と理解できた。どんなサッカーのタイトルよりも、どんな学業の成績よりも自分の中では財産だと思いますね
浦和や名古屋でもタイトルを取った。何かを残す責任はある。呼ばれただけの男にはなりたくない。色々と与えてもらった日本に対して、今度は自分がやらなきゃいけない。恩返ししなきゃいけない
日本ではプロサッカー選手として生活していたうえで、試合に合わせて規則正しいスケジュールがあった。なかなかやりたくてもやれないことがたくさんあった。街に信号もない田舎でもすごく楽しいし、日本にいない動物と触れ合うこともできる。釣りを取っても、スケールが違う。大自然の中で生きていくのはすごく楽しい。地元の友だちと過ごす楽しい時間も見てもらいたい。もちろん引退してもサッカーは楽しい。人生の半分以上はサッカーをやってきたからこそ、ここまできた
僕は常に全力を尽くしてやるのが自分のいいところだと思っているんですよ。強い気持ちを失ったら、闘莉王が闘莉王でなくなる。気持ちがなくなったら、それはサッカーをやめるときだと思います。それがなかったら、自分の色が一つもなくなってしまうから。
今は地球全体が大変な時。ブラジルだけでなく、日本の人たちも心を一つにしてこの危機を乗り越えなければいけない
確かに傷つけられた事実はある。でも、それはパワーになった。一皮むけた。さらにタフになった。決して悪いことじゃない。嫌な気持ちはなく、プラスだと思っていますよ。
自分が取ることも大事ですけど、いいアシストをした時には、『サッカーって楽しいな、サッカーをやっててよかったな』って思います。人を喜ばせることは、すごくいいことだと思っていますから。自分が何かの形で人を喜ばせていることで、いい気持ちになりますね。
結果は手に入るものじゃない。今までも自分の人生は全部そうだったんです。必ず苦労したあとに、非常に大きな喜びを感じてこられた。その苦労を乗り越えられるからこそ、与えられているものだと思っていますから。いろんな困難がある中で、乗り越えてやってくしかないです。