Asreet 名言

「チャレンジの連続、勉強の連続」松井稼頭央

松井 稼頭央は、大阪府東大阪市出身の元プロ野球選手、プロ野球監督。 現役引退後、2019年シーズンから埼玉西武ライオンズの二軍監督、一軍ヘッドコーチを歴任し、2023年シーズンからは一軍監督を務める。現役時代も同球団で活躍し「ミスターレオ」と呼ばれた。シーズン長打NPB記録保持者。日本人初の内野手メジャーリーガー。 

生まれ: 1975年10月23日 

名言

ここで生まれ、ここで育ち、また最後ここで引退する。運命的なものを感じますし、チャンスをいただいたライオンズには感謝しかありません。

当然なくてなはらない存在ですし、野球を好きで始めて、今もまだ野球が好きです。この先も好きであり続けると思いますし……、そう言うと好きしかないのかなと思います。好きのまま終われる野球人生、これでいいと思います。

僕はすごいバッターじゃないですし、守備も大してすごくないですし、足だけは少し速いかな。すべてが兼ね揃って、初めて一つになると思っていました。3つがすべて重なって初めて、松井稼頭央なのかなという思いで25年間やってきました。この年齢になって動けることが第1条件で、そうじゃなければ僕じゃないなと。

まさかプロ野球の世界に入れるとも思わなかったですし、自分の中では20年間、選手として、という思いを持って現役を続けてきました。まさかスイッチヒッターになるとも思っていなかったですし、アメリカに行くとも思っていませんでしたし、そしてこうして引退会見を開いていただると思っていなかったので、本当に夢といいますか、自分の思い続けてきたことの積み重ねがこれだけ大きなものにしてくれた。そして、そこにいくまでにはみなさんの支えだったり、みなさんとの出会いだったり、そういうものは自分の中で非常に大きいものだと感じました。

太陽の近さだったり、芝の匂いだったり……。グラウンドに入ると、芝の匂いを嗅いで、子どの頃のようにじゃないですけど、そういう感覚を持って野球をしていたと思います。

僕自身日本でやって、アメリカに行きたいと思ったのは、どれだけすごい身体能力の選手がいるのかと、まずそこに興味を持ちました。29歳の年で(メジャー)1年目だったので、行くとしたらこのチャンスしかないと。野球人生もそんな長くない中で、アメリカに行く道が少し広がってきた中、自分も1度挑戦したいという思いで挑戦しました。アメリカに行って7年間、いい経験をしましたし、悔しい思いもしましたし、本当にチャレンジの連続、勉強の連続。今振り返れば……、いい経験をさせていただいた7年間だったと思います。

思い残すことはいっぱいありますが、それが引退するということだと思います。当然やりきったとは言えませんし、でも自分で決断するときはこういうときなのだとあらためて考えさせられました。残りまだシーズンもあります。僕自身、兼任コーチという立場でありながら、まだ選手として、チーム全員最後まで一つになって戦いたい。最後終わるまで終わりじゃないなと思っています。

日米通して、25年長い時間を過ごさせてもらって、何個か挙げるのは難しいです。本当に印象に残るとすれば、今シーズン最後の試合になると思います。

ここ数年、毎年毎年1年が勝負として、やってきました。今年は楽天を退団して古巣ライオンズのユニホームを着て、これが最後の年と思って過ごしてきました。登録抹消になって、初めて自分と向き合える時間があり、そろそろかなと思いました。辞めるという決断をして、球団、お世話になった人に報告をして今日、会見を開かせてもらいました。悩みましたが、この時が来たと感じ、引退を決意しました。

高校を出て、西武ライオンズに声をかけてもらって、生まれた場所、育ててもらった場所です。フリーエージェントでアメリカに挑戦しましたが、最後は日本に戻ってプレーしたいと思って、楽天さんに声をかけてもらって素晴らしいチーム、ファンの下、7年間を過ごさせてもらいました。最後、辞める年に古巣ライオンズに声をかけてもらったことは何かの運命かなと思っていました。辞めるのであれば最後はここで辞めたいと思っていました。

ライオンズにいたときはエース級の投手ばかりが(チームメイト)だったので対戦しなくてよかったです。やっぱり、松坂大輔とはアメリカでも対戦しましたし、今年はオープン戦ですけど対戦できました。同じチームで一緒にやっていたという気持ちの中で、勝負ができたという思いはあって、楽しみにしていましたし、対戦できてよかったと思います。

25年間も現役をやらせてもらったことは、選手として非常にうれしいです。25年もやらせてもらうと、苦しかったり悔しかったりが多いのですが、少しの喜びを得るためにいつもやってきたと思います。

高校まで投手で、プロに入って、野手になり、常にチャレンジをしていた記憶しかないです。ショート、スイッチヒッター(に挑戦し)、ほかのことを考えることもなく突っ走ってきました。やってきた積み重ねが最後の最後に大きなものになったと感じています。

プロ2年目、東尾(修)監督に抜擢していただきました。東尾監督と出会わなければ今の僕はなかったと思います。アメリカから帰ってきて、星野(仙一)監督にお世話になったときも、出会わなければ、ここまで長くできなかったと思います。家族のサポートも大きいですね。家族を犠牲にして野球だけをやらせてもらった18年。そばにいてくれたからこそ、できた18年だと思います。

妻には「お疲れ様」と言われました。娘も顔を見るたびに抱きついてきて、泣いていましたね。息子は「そうなの」という感じです。つらかったですが、家族がいたからこれだけの長い野球人生を過ごせたと思います。SD(渡辺久信・球団シニアディレクター)にも報告させていただいて「お疲れ様」と言葉をいただきました。育った場所で引退をさせていただくことには、感謝の言葉しかありません。

結果が伴わない中、準備だけは常にやってきましたが、今年の春のキャンプでも久しぶりにこのユニホームに袖を通して、興奮と楽しみと不安の中、1試合でも多く試合に(出たい)という気持ちでやってきました。試合でもあれだけの声援をいただいて、本当にうれしかったです。

実際にメジャーでプレーをして勉強になったことはたくさんあります。メジャーでも「基本」が大事だということを思い知らされました。超一流選手も、ノックを受けて、しっかり取って、投げる。これを怠っていませんでしたからね。

やっぱり一度、優勝の味を知ると何度でもビールかけしたくなる。そのために年齢も年齢なんで、大きなケガなく戦えるようにオフから準備して、まずキャンプにいい状態で入ることが目標です。

高校の時まではピッチャーだったので、そこから野手に転向して、最初は守る位置も分からなかったですし、塁に出ても帰塁の仕方が分からなかった。そこからのスタートでしたから、とにかくやるしかなかった。練習でも試合でも、成功でも失敗でも、経験することのすべてがプラスになることだらけだったので、迷う必要もなかった。当然、ミスしたらその分、練習をしましたし、やらされもしました。それでも試合で使ってもらったことがありがたかったですし、練習できる体力、土台が自分にはあったのが大きかったのかなと思います。高校の時まではピッチャーだったので、そこから野手に転向して、最初は守る位置も分からなかったですし、塁に出ても帰塁の仕方が分からなかった。そこからのスタートでしたから、とにかくやるしかなかった。練習でも試合でも、成功でも失敗でも、経験することのすべてがプラスになることだらけだったので、迷う必要もなかった。当然、ミスしたらその分、練習をしましたし、やらされもしました。それでも試合で使ってもらったことがありがたかったですし、練習できる体力、土台が自分にはあったのが大きかったのかなと思います。

ようやく日本一になれました。チーム(東北楽天ゴールデンイーグルス)は創設以来初ですし、僕自身も西武時代からいままで出た日本シリーズで3回全て負けていたので嬉しいです。もちろん毎シーズン、日本一を目標にプレーしています。その中で、なぜ昨年優勝できたのかという質問をよくされるんですが、僕はすべての歯車がかみ合ったからだと思いますね。

メジャーでプレーをしてためになったことの一つは「BURN(バーン。エア・ハイタッチのようなポーズ)」です。アストロズ時代に(ミゲル・)テハダがやっていて、いいなと思ってました。いつも応援してくれるファンと試合中に一体になりたくて、楽天に入ってから始めたんです。最初は「何してんねん」という雰囲気でしたけど、いまは浸透してファンと盛り上がれるので、楽しいですね。

僕は、今日の試合の反省をしたら、後は元気に楽しくやっていこうと思うタイプ。

「昨年よかったから今年もいい」わけではありません。

多くのファンの方に足を運んでいただいて、これだけの声援を頂いた中で勝てたのはよかったと思います。交流戦も始まりますし、いい流れでスタート決めたいと思います。一戦一戦やっていきます

小学3年生から始めた野球なので、そこからゴールデンウィークはないですね

今は目の前のことに集中していますけど、監督としては先を読むことが必要だと思います。先のこと、さらに先の先のことを読めるようにしないといけない。試合は常に動いていますし、その中で選手をどう使って、どういう作戦をするか。先を読んで動く必要がありますし、逆に動かない方がいい場面もある。いろんなことを考えなくちゃいけないですから大変ですね。ただ、最初の頃と比べると、少しは確度が上がったんじゃないかなと思ってます。

まだ真っ白なので、これから自分の色、自分のスタイルを作って行きたい。毎日、勉強中ですから、いいものはどんどん取り入れて行きたいですし、どんどん新しいものにもチャレンジして、視野を広げられるようにしていきたい。変わっていく楽しみというのは、選手だけじゃなくて、僕自身についても同じです。

何年もこうして野球に携わって、本当にゲームセットまで何が起こるかわからないのが野球だと思うし、ゲームセットまではもちろん気を抜かないで毎試合取り組んでいますから、悔しい3つ(3試合連続サヨナラ負け)でしたよね。選手たちも非常に悔しいと思うし、ファンの皆さんも悔しい思いをされていると思います。勝つことが1番元気になることだと思うので、明るくやっていきたいなと思います

本当に多くのファンの皆さん、特に野球少年がプロ野球選手になりたいということや、こういう選手になりたいと思えるような試合にしたいと思います。選手たちの1つ1つのプレーを観ながら応援していただければと思います

まだ先のことは正直考えていないです。でもユニホームを着させていただいて、野球には携わっていきたいという気持ちもあります。それよりまず日本一目指して、全力で全うしていきたいです。

グラウンドに出ている姿を見てもらいたい。最後、胴上げをしてもらっているところをぜひ見てもらいたいという……イメージです。それに向かって、全員で一つになって、束になってやっていきたい。ファンの声援を力に変えて、ファンあってのプロ野球、ファンあっての選手だと思うのでファンに感謝して戦っていきたい。

やらなきゃいけないことがいっぱいあって、それをやっていただけで、当時から苦労とは思っていなかったです。今、自分自身を振り返って言えることは、練習をできる土台があったということ。高校の時はケガばっかりしてたんですけど、プロになってから練習できる身体があったということが大きかったと思います。

僕自身、もう引退しましたけど、まだまだできたんじゃないか、もっともっと練習できたんじゃないかと思いますし、技術の追求には終わりはない。とにかく野球を好きという気持ちを持ったまま、追求してもらいたい。いろんな可能性を秘めている選手たちだと思います。理想は全員が一軍に上がって全員が活躍すること。そうなれるように僕も含めてコーチ陣がサポートするので、チャンスがあるという気持ちを持って取り組んでもらいたい。

僕自身、まだ監督1年目なので、何の色もないですし、選手たちに対しても真っ白な気持ちで見ています。まずは1シーズンです。1年間、戦って、そこで学んだこと、経験したことを、次のシーズンにどう生かしていくか。1年間で得た経験、課題をどうクリアして、どう変わっていけるか。それができる選手には期待したいですね。

二軍は育成することが大事ですけど、育成しながらも一軍の状態も知っておかなくちゃいけない。今、一軍がこういう状態だから、もしかしたらこの選手が呼ばれるかもしれないとか、この選手が好調だから上で使ってもらいたいということもある。二軍戦を戦う上では、そこが一番難しいところですね。ただ勝つことを目指せばいい訳ではないですし、だからと言って勝ちを目指さないと緊張感のある試合はできない。僕自身、勝ちに行きたいですし、選手にとっても、勝ちを目指して緊張感のある試合の中でプレーすることはすごく大事。そこで成功する、失敗するというのが成長につながる。なるべく緊張感のある、1点差、2点差の試合を多くしていきたい。

信念であったり、覚悟であったり、そういうことも含めて、監督というのは決断をしないといけないということを、あらためて今になって思いますし、その難しさも感じますね。口ではいろいろ言えても実際に行動に移すことは難しいですからね。でもその分、やりがいがあります。

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